水のなかの色

あいまいなものについて、考えごと。

食べる現実

私の考え事には具体的な言葉が少ないと思います。私が書く文章も意識しないと具体物があまり登場しなくなります。昨日書いた文章に出てきたのは、大学と会社とゼリーとナタデココぐらい。そんなに抽象的なことも考えていないし書いていないので、具体的なものも抽象的なものも少ないのにここにあるのは一体何なんだろう、という感じです。まあそのくらいがちょうどよくて好きなのでそれはそれでいいのですが、今日は具体的なかたちのある何かを登場させてみようと思います。

普段から暇さえあれば考えごとばかりしていますが、考えごとをしているあいだ私は雲の上か海の底にでもいるような気分で、あまり地に足がついていません。ここでいう雲や海は比喩であり、私の心のなかのイメージです。空と海にはさまれた地面が現実世界にあたりますが、自分が地面(=現実)にいることはめったにありません。考えごとの世界には現実の地面はあまりなくて、あるのは深く潜れる海と高く飛べる空、つまり非現実がメインなのだと思います。そんな考えごとが好きな私は、どちらかといえば現実よりも非現実の世界によくいるのだと思います。

数か月前に今の町にひっこしてきて、仕事に行きはじめて、現実にいる時間が増えました。新しい部屋も新しい町も新しい仕事も知らないことだらけで、知ろうとして地面の上を歩き回るので忙しかったのです。前までは現実を考えるということはよくわからない将来のことを考えることと同義で、だから現実は不安なものだと思っていたのですが、仕事についてしまったのでしばらくは将来の心配をする必要がなくなりました。そういうわけで不安の少ないフラットな状態で現実を感じてみると、いろんなものがただただ新鮮で、悪くないなと思いました。

新しいアパートはスーパーの近くで、帰りに寄って野菜や果物を買うことができます。ひっこしてきたのは春だったから、新玉ねぎと春キャベツを買ってきて、料理して食べました。大学生のころはスーパーから離れたところに住んでいたのであまり野菜を買ったことがなくて、実はいつもの玉ねぎと新玉ねぎのちがいもよく知らなかったのです。春のキャベツと玉ねぎが甘くてやわらかいことが私にとってはすごく大きな発見で、その食感を確かめるために何度も買ってきては食べました。

最近はスモモが目に入るようになって、おととい4個入りのパックを買ってきました。ガラスの器のまんなかにスモモの実をひとつ置いて、しばらく眺めてからゆっくりかじります。朝晩にそれぞれひとつずつ。スモモは、暗い紅色のハリのある皮をかじるとみずみずしい黄金色の果実が現れるから食べるたびに驚きます。スモモなんて名前だからすっぱいと思って食べはじめるのに、種のところ以外はすごく甘くてびっくりします。春の野菜は終わってしまうけれど、しばらくはスモモの季節を楽しめそうです。

みずみずしい野菜や果物を味わっているときは、すごく現実を感じます。いい意味で。食べていると自分の体がちゃんとあるような感じがします。私はゼリーも好きでよく食べますが、ゼリーを食べているときもたしかにそういう感覚はあるのですが、季節の野菜や果物を食べるとき特にそう思います。なんというか、とてもおいしい現実をまるごと食べている感じです。

すべての季節にそういう食べ物をみつけて味わっていけたらもっと現実を好きになれるかもしれない。現実をいい意味で味わえるような何かをもっとたくさん探していきたいです。

ささやかな好きなこと

好きなことについて書きます。

「マンガが好き」とか「アニメが好き」とか自己紹介でいえるような趣味はないけれど、いくつかの好きなものが私にはあります。

好きなもののひとつめはやっぱり考えごとです。テーマはいろいろあるけど自分や他人の感覚や記憶や意識のこととか。思索というにはまとまりがなさすぎて空想まじりなので「考えごと」とよぶほうがしっくりきます。私は大学を卒業したにもかかわらず自分の専攻が何なのかわからないくらいで、考えごとを学問に昇華させることはとてもできそうにないけれど、それでも好きです。内容というよりは考えごとをして時間を忘れる感覚自体が好き。私は私以外に「考えごとが好き」という人に会ったことがないのですが、実は好きという人は多いんじゃないかと思っています(ほかの人はほかのよび方をしてるのかもしれない)。

本を読んだり文章を書いたりするのも好きです。子どものころはよく本を読んでいたと思いますが、最近はそれほど多くは読んでいないような気がします。話題の小説のほとんどは読んだことがないし、特定の好きな分野があるわけでもなく、読んだ本の内容をしっかり覚えているわけでもありません。本好きな人の話を聞くのは好きだけど、自分が読んだ本の話はあまりできません。でも読むという行為自体が好き。書くのも、人に見せる文章はあまり書けないけど書くこと自体が好きなので、自分しか読まないノートにいろいろ書くのです。

それから透明でキラキラしたものが好きです。ガラスの器やビー玉も好きだし、水の流れだとか、スプーンにすくったゼリーやナタデココに光が透ける様子だとかはずっと見ていられます。でもそれを写真に撮ったり絵に描いたりはしなくて、ただ眺めて満足してしまいます。

どれもこれも、私がそれを好きなことがほかの人には伝わりにくいでしょう。同じものが好きな人と語り合うということもあまりありません。だけどいうまでもなく、私の好きなことはどれも私にとってとても大切です。

好きなことはたいてい、長い間ずっと好きでいます。昔の自分が自分だと思えないことがよくあって、そのたびに好きなことをやってみて、そうするといつも今の自分は昔の自分が好きだったことが変わらず好きなので、自分が自分であることに納得できるのです。最近は会社員になった自分が大学に通っていたころの自分と同じものと思えなくてずっと不思議な気分なのですが、やっぱり私は考えごとと読むことと書くことと透明が好きなままなのでそれで少し安心できます。

私の好きなことを私はずっと覚えていたいです。忘れたくないから書き残したいです。趣味というにはささやかで自己完結的な私の好きなことをささやかなまま確かなものにするために、それもこの場所に書いてみようかな、と思います。

少なくなった考えごと

考えごとはしていますか。

過去の私はしているでしょうね。昔からずっと考えごとをしていました。空想の世界のことや私にまつわる謎のこと、たくさん考えては自分だけのノートに書いていました。学校で使うどの科目のノートよりも、そのノートが埋まるほうがそういえばいつも早かったな。

そんな過去の私は驚くかもしれませんが、最近の私は一日じゅうずっとは考えごとをしていないのです。考えごとが止まらなくて眠れなくなることもへりました。数か月前に会社員になってからというもの、帰ってきて洗濯と掃除と料理とお皿洗いをして、シャワーを浴びて髪を乾かして、そのうちに眠たくなって寝るという生活で、私は仕事や家事のようなやらなきゃいけないことをやっているあいだはほかのことを考えられなくなるものだから、朝でかけて以降は本格的な考えごとをしないという日もあるくらいです(これまでは記憶にあるなかでは、よほど忙しくないかぎり毎日考えごとをしていた気がするのですが)。本格的な考えごとをするのは時間のある朝か休日の電車のなかぐらいかもしれません。

それでも自分だけのノートの残りページは徐々にへっていくのですが、欲しいもののことを書くのに金額や購入時期をくわしく書いたりだとか、現実的なメモをかなり多く含んでいるので厳密な意味での考えごと(私の考えごとの定義はもっと空想的でふわふわしたものみたいです)はやっぱり少なくなった気がします。

まあ考えごとは止まったわけではないのです。ただ、考えごとの量がすごくへってしまって、すごく限定的でささやかなものになってしまったと感じます。これまでは頭のなかでいつもだいたい3つくらいの考えごとが同時に流れていて、そのどれもが気になって大変だったんです。私の思考はゆっくりなのに頭のなかでたくさん言葉が流れるからそれを追うのに必死でした。それが朝と電車のなか限定になって、ほかの時間はかわりに「つぎは〇〇をしなきゃ」とか考えているんですが、そうすると〇〇が終わったときに何も考えていない(頭のなかに言葉が浮かばない)瞬間ができて、そういうときにすごく外の世界がくっきりと感じられます。私は考えごとがいちばんすきだから、考えごとばかりしていられないのはすごくさびしいのですが、世界がくっきりするその感覚はけっこう好きです。

最近はよく考えごとのかわりに頭のなかで、どこかできいたことのある音楽がずっと流れています。カフェのバックミュージックみたいで落ち着きます。同じ曲が何度も何度もかかったり、バラードのあとにいきなりポップなCMソングがかかったりするので落ち着かないこともありますが。このごろは朝早く起きて、昨日頭のなかでかかっていた曲やはじめてきく曲をかけて、スマートフォンの楽器のアプリでメロディーをなぞって遊んでいます。高校生のときも大学生のときもギターを買ってあまりひけるようにならなかったけれど、考えごとを追いかける必要のない今ならなんだかひけそうな気がします。というか、ひけるようになるまで長い時間がかかったとしても飽きずにやれる気がします。いつまでこういう時期が続くかはわからないけど、とりあえずかわいい色のエレキギターでも買ってみようかな。

過去の私と未来の私へ

お元気ですか。私はけっこう元気です。

大学生ではなくなって、会社に通いはじめて数か月がたちました。新しいまちは大きな川と橋がある私好みの土地です。山に囲まれていて、これまでのようにすぐに海まで出ることはできませんが、近くのスーパーに行けば好きな野菜や果物を買うことができます。大学生のころは学食に頼りきりでめったに自炊もしなかった私が料理をするようになりました。やっぱり器用ではないから見栄えのするものは作れませんが、自分ひとりがおいしいと思えるものなら作れるものですね。

会社ではパソコンで文字や数字を打ったり車を運転して書類を出しに行ったりしています。会社にはねこがいてあじさいが咲いています。みんなやさしいです。おしゃべりできる同期もできました。そんなわけで1日8時間なんとか会社にいることができています。土曜日になれば大学時代からの友だちに会いに行くこともできますし。今のところはなんとかやっていけそうですよ。

だけど、今も気分は大学生なんです。というか高校生かもしれないし中学生かもしれない。放課後はずっと友だちとしゃべっていて、自分が将来何になるかばかり考えていた学生時代の気分なんです。基本的に私は自分のことを14歳か15歳くらいでイメージしていて、そんな中学生くらいの子どもが会社に行ったり車を運転しているような妙な気分なんです。自分が「会社」とか「仕事」とか「学生時代」とか言っていることに違和感があって、私はそんな感じじゃない、と思います。なんというか、私は私のやり方を忘れてしまった。もともと「私のやり方」なんてないのですが、大事なことを忘れてしまったみたいなちょっとヒンヤリする感覚です。

そこで朝早くに起きて、今まで好きだったことをちょっとずつまたやってみることにしました。文章を書くのは好きなことのひとつです。過去の私が書いた文章は、やっぱり恥ずかしいんですが、それでも私は好きなのです。友だちに嫌われたときも勉強ができなかったときもずっと眠たかったときも、何も考えられない気分だとそのころの私は思っていたのですが、そのとき書いた文章を読めばちゃんと感じて考えていたっていうことがわかります。今の私だってきっとそうでしょう。だから、未来の私にむけて書くというのがひとつ。

もうひとつ、過去の私にむけても書きたいと思いました。いつ考えても不思議な気分になることですが、中学生の私も高校生の私も大学生の私ですら、今の私のことや住んでいるまちのことを知りません。過去の私はずっと、将来の心配ばかりしていましたから、今の私がなんとかやっていることだけでも伝えてあげたいです。もちろん過去の私は今の私の文章を読むことはできませんが、今の私のなかには各時点の私がいると思うので、その私たちに読んでもらうのです。

というわけで、ここには過去と未来の自分に宛てた手紙をおくようにしようと思います。今すぐたくさん書きはじめるわけではないかもしれませんが、こういう場所を作っておくだけでちょっと自分が確かになるような気がします。子どもでも学生でもなくなった私がちゃんと生きていて、なんとかやっていることを書くことにしましょう。過去の私と未来の私と、ついでにどこかにいる私に似ただれかのために。

見えないところで動いているもの

別に毎日書こうと思っているわけではないのだけれど、この不自由な暮らしは案外、新しく思うことや考えることが多くて書かずにいられない。本当は昨日考えたことを今日も考えていたかったけれど、しばらく後でまた考えられるような気がしてそうしなかった。エントリーシートはなるべく早く書いたほうがいいのだろうけど今日は締め切りではないし、明後日くらいに書けばいいような気がして、また自分のための文章を書いている。

昼に本を一冊読み終えて、夕方ごろに自転車で買い出しに行って、また本を読んでいた。図書館が開いていないから、少し前の自分が読みたくて借りていた本をゆっくり読んでいる。たまに外に出るけれど近所のコンビニに向かう決まったルートしか通らない。この暮らしも少し慣れてきたように思う。数日前まではものすごく抵抗感があったのだけれど、単調なものだから慣れるのも早いのかもしれない。明日にはまたどこかに行きたくなっているのかもしれないけれど。

コンビニからの帰りにいつも見ている建物が見えたのだけれど、いつもと違う場所が目に飛び込んできたのでなんだか特別な気分になった。私は外に出る機会は貴重だから季節の花の色や香りをなるべく感じていようとしていたのに、ふと目を上げたときにいつもより遠くに焦点があったからなのか、そういうふうに見えた。まさか丸三年ずっと目にしてきた建物を初めて見たような気分になるとは思わなくて、自転車に乗ったままずっと眺めていた。春の大きな金色の夕日に横から照らされてなんだか神々しかった。

私が感じようとしなくても色とか形とか香りとかが私に飛び込んでくること感覚があることを、最近はあまりなかったのが不思議に感じるくらい、ちゃんと思い出した。どこにも行けないから新しいものが見れないなんてことも本当はなかった。私がどこにも行かなくても私の感覚は動いているし、世界のほうもずっと動いている、と思うと安心する。いつかまたどこにでも行けるようになったらきっと新しいものを見つけるために遠くの知らない場所に出かけるだろうけど、今は家と近所だけで新しいものを待っていてもいい。

帰ってきて読んだのはさっきとは別の本の一節だった。ベッドの辺に腰かけて本は膝の上に乗せていて、そういえばこの姿勢で読むことはあまりなかったかもしれないなと思った。今日はそういうことに気づきやすい日なのかもしれない。普段はほとんど家具の配置なんて意識しないし自分に手足があるともそんなに思っていないのだけれど、読んでいる本の重量に引っ張られて、本が触れている自分の身体に意識が向くことがある。というよりも、本の一部に自分全体がなってしまったような。今日は座っている場所が部屋のちょうど真ん中だと気づいて、そのままいたら部屋の空間全体と一緒になってしまったような感じもした。考えてみれば本だって数百枚の紙なのに、本として手に持っているときは紙というよりも一つの塊として感じている。

本の内容がそんな感じだったわけではないと思うのだけれど(少し関係あるような気もするけど)、一節読み終わったときにそんなことを考えていた。そのことが不思議なことみたいに思えたから本当は最初からそのことを書こうと思っていたのだけれど、なぜか夕方のことから書いてしまった。感じることも考えることも書くことも、私の意志と別のところでも動いている。そういうことをちゃんと感じていきたい。

私のなかの海と空と地上

私だってもともとは地上にいた。地上では、たくさんの見えない何かがあれしてこれしてと私に向かって訴える。どれも私には叶えられそうになくて縮こまる。それらが上から押し寄せてきて、私はどんどん地面に埋め込まれる。もうどこにも行けない。そのとき、地面が突然柔らかくなる。ここは海だ、助かったと、私は存分に沈む。海底に届くころ、私はずっと上空で遊ぶ自分を思い浮かべる。いつしか私は雲の上にいる。私の身体はもうなくなってしまっただろうか。言葉だけになった私は重力の少ない雲の上でずっと遊んでいる……

もちろん比喩である。実際の私には身体があってずっと地上にいる。海は私の内面的な考えごとの場所で、空は私の空想のための場所、どちらも私の思考のなかの空間だ。考えごとをするときは、深い海のような場所に沈んでいくような感覚がある。たまに、考えごとのなかでもキラキラしたものだけが空に昇っていくので、雲の上でそれらと戯れる、ような感覚がある。これらは私の空想のなかでの感覚でしかないけれど、とにかく子どものころからずっとあるもので、確かなものなのだ。

この私のイメージのなかで、現実の比喩である地上に、私がいる(ような感覚がある)ことはほとんどない。現実から逃れて考えごとや空想をするときのためのイメージなのだから当たり前かもしれない。地上つまり現実が、苦しいというわけでもない。ただ、私の想像のなかの地上は見えない塊と圧力だけがあるというイメージで、ひたすらよくわからない場所だから、そこにいながら存分に考えごとができる気がしなくて逃げてしまうのだ。もちろん現実は普段そこで生きている場所ではあるのだけれど、私は現実のなかでも都合のいいところだけ覚えておこうとしてしまう。好きな人たちに会えること、ほかの人たちのそれぞれの生活があること、そういうのは現実世界のいいところだ。あとは花の名前とか星の形とか、結局、海底や雲の上に連れていくのにふさわしいキラキラしたものばかり取っておこうとしてしまう。結局私は、考えごとに浸ることや空想のなかで遊ぶことが安心で、好きで、大事だから。

そんな感じで生きてきたのに、最近は海に潜れないしもちろん雲の上にも行けない。こんなに時間はあるのに、ずっと現実の地平と接している。もう私のモラトリアムもあと一年しかないので(都合が悪いからまだ疑っているのだけれど、どうやらそうらしい)、現実のいろんなことをちゃんと考えないといけなくなった。就職活動、卒業研究、政治・経済のこととかいろいろ。目下のところ特に考えないといけない一年後に始める仕事のこと。いろいろと将来の夢はあったけれど、どれも本当に私自身がその仕事をしている想像がつかない。空想に逃げようとしても、行き先が未定であるという事実が浮かんでくるのでうまくいかない。かといって現実のことを考えようとしてもよくわからないしちゃんと自分が考えているような気がしない。想像上の地上にいて、何も見えないし動けないままずっとそこに佇んでいる。実をいえば最近だけじゃなくて一年くらい前からずっとそんな感じだ。現実世界(想像上のではなく本物の現実世界)でいかにも将来の自分のためになりそうなことばかりしてごまかしていた。最近はこの状況だから、行動しているふりもできない。

本当は私のための空想じゃない、現実のことも、考えようとはしてきた。現実社会のこと。もともと自分以外の人たちは好きだし、その人たちのいる社会のことには惹かれていてちゃんと考えたいと思っていたから、ずっと勉強していた。だけど膨大な社会の像は私的な考えごとと空想の空間にはには取り込めそうになかったし、無理やりそうしたってそれは社会の幻想でしかないと思った。それでいくら本を読んでも私のなかで社会は見えない塊のような姿でしか思い描けなかった。こんな状態ではほかの人たちを含めた広い社会のことを考えるどころか、自分が出ていく先の狭い社会のことも想像できないし、それについて思考できない。

 

と、考えていたのがさっきまでの話だ。今日の昼間にこの文章を打っていて、少し時間が経ったら解決策のようなものを思いついたのでそれについて書ける分だけ書いておきたい。(最近こういう、書きながら気が変わることが多いのだけどこれはどうしてなのだろう。)

私が現実社会について考えるための空間を、私の比喩の世界のなかに新しく作ればいいんじゃないか。海や空は私的な考えごとや空想のための空間だから、現実に対応する地上についてのイメージを設定すればいい。現実はもちろん私が把握できないほどの膨大なものだから、いま私にわかっている部分だけ、いま私が考えたいことに関係する部分だけの暫定的なものとして。本当はそれを言葉だけですればいいのかもしれないけれど、私は抽象的なバラバラの言葉を並べるだけでは本当に考えている気がしなくて、それだから空想の世界にキラキラした具体物についての言葉や私自身の確かな感覚についての言葉をためこんでいるところがある。記憶とか意識とか、私の考えたいことは大概、それだけでは何なのかよくわからない曖昧なものばかりだから、物や感覚と絡めておかないと私のなかで意味をなさない。だから比喩でできた想像上の世界を作りこむのだ。現実というと広すぎるけれど私にとっての現実、私と現実が接しているような事象を比喩にして私のイメージの世界に取り込む。そうすればとりあえず現実はわけのわからないものではなくなって、それについて考えることだけはできるようになるはずだ。想像のなかの地上で私は動くことができるようになるかもしれない。いままで知ってきたことをこの空間に位置づけるようにして考えてみよう。

空想の世界も取っておける。私は、現実のことばかり考えていたら、大事な空想の世界に入れたくないものが入り込んできてぐちゃぐちゃになってしまうんじゃないかと考えていた。でも現実のことを考えるための空間が、空想のための空間と同じ次元に違う位置取りであるのなら、私的な考えことも空想もそれはそれとして今までどおりできるだろう。海と空と地上のあれこれがある私のなかの世界。この世界で存分に内面のことも社会のことも考えていこうと思う。

頭のなか

 

 

人間は勝手に何かに心を動かされたり勝手にそれをあとから思い出したりするような存在なのに、自分の気持ちは自分で決めれるように思うんだとしたら不思議だな。感じたことを言葉にすることはできるけど、無理やり自分の気持ちをほかのものに入れ替えたってあとからなんとなく違うって気づいちゃうから無理だ。

少なくとも私だったらメロディーがわかってても思いどおりに歌えない、お手本を見ながらでも実物とかけ離れた絵しか描けない。それなのにやらなきゃいけないことならできるはずって、そう思って頑張ったらできるようになることも少しはあるけど、やっぱり無理なものは無理だと思ってしまうな。やらなきゃいけないことだし頑張ってできるようになったらいいなって思って頑張るけど無理っぽいって思ってしまうのは自分で止められない。

ずっと無理だと思ってる。ちゃんとした人間が満たすべき条件みたいなのをちゃんと満たすこと。だからもう最初から諦めてるけど、それなら私はどうなればちゃんと大人になれるのか。私に可能な範囲でどんな条件を設定してどう頑張ればいいのか。21歳の私ってこんなのじゃなかったはずなのに。

いま考えてることは全部違う、言葉ばっかりで本当じゃない。こんなこと思ってるわけじゃない。言葉もうまく使えたためしがない。こんなことは多分ほとんど本当は思ってなくて、頭のなかでは無理無理って繰り返してるけどとりあえず今日はすることがもうなくてまだ眠りたくもないから文字打ってるだけ。

人間のなかで大人って呼ばれてるだけ。

地球とか宇宙に比べたら何でもない一瞬なのに人間だから年齢を数えられてしまう。軌道もないのに行けない場所だらけの空間。人間がたくさんいるから人間が一人だったら問題ないことを考える人間。私が一人だったら私は私のことわからなくならないけど、私が一人だったらそもそもそれって何なのか。

社会がわからないのに社会に向かわされる、社会に向かうのがいまの私のやらなきゃいけないことだから無理。