水のなかの色

あいまいなものについて、考えごと。

外側の自分と内側の自分

文章にしてみたって案外、最近の日常のことしか書かないよなって思う。実は現実世界で他人と顔を合わせている対外的な自分は本当は自分じゃないのかもしれないと思っていて、書くことならそれよりは自由そうだからもっと内側のことを書けるかなって思っていたけれど。結局は外側にあることのほうが書きやすい。

私は自分を記憶の層によって成り立っているように捉えている。マトリョーシカ人形みたいな感じで、内側のほうが昔、外側が今に近い、複数の自分の組み合わせ。子どものころと大人になってからの性格なんて大体の人で違うと思う。私もそうで、しかもかなり自覚的に変わってきたほうなんじゃないだろうか。ある日突然、何かを決意して、一個前の自分を否定して新しい自分を作る。趣味、嗜好、人間関係、どれも全く違うものにして早く忘れようとする。それでも空想と考えごとはずっと好きだし、感覚はさほど変わらないし記憶はもちろん共通している。だから絶対どれも自分だって信じられる。記憶で結びつけられた自己。それだから私は、よく記憶について考えるのだと思う。

子どもの頃はいまよりずっとうまくやるのが苦手で、友だちを傷つけたり嫌われたり、友だちのような人から下に見られたり歯向かってまた嫌われたりとか、そんなことばかりしていた。空想だけは自由だと思っていていろんなことを考えた。いまの対外的な私が社会的なこと(一般的にみたらそうでもないけれど、子どもの頃の私からしたらとんでもなく社会的なこと)をするたびに、外側の記憶ばかり増えていってその頃のことは埋もれてしまうんじゃないかと思う。大事にしていたものとか変わろうとした決意とかも忘れて私は外側の部分だけで生きていくんだろうかと考えて少し怖くなる。これもいつものごとく大げさなことなのだろうけど。

最近の日常といえば、私はこの4月大学4年になって、もっぱら(というほどちゃんとやっていないが)就職活動をしている。そこで、「学生時代に最も力を入れたこと」とか、「人生で一番大切にしたいもの」とか、ほかにもいろいろあるけれどそんな感じのことを聞かれる。本当はそういうものの答えはたいてい内側のほうにあるけれど、初対面の面接官に対して話すことなんてできないから、結局口ごもるか本当じゃないことを言って気まずい気分になるかのどちらかだ。都合の悪い昔の自分のことは隠すし、それどころか昔もいまもずっと好きな、私の根本ともいえるくらい大事な、考えごとのことも話せない。私は誠実な人間でいたいですとか言いながら、嘘ばかりついていると思うと、面接の間もそのあともずっと居心地が悪い。

でもまあ、初対面の人に見定められる面接よりもずっと自由に表現できるはずの、自分の場所で書く文章でだって外側からしか書けないのだ。厳密に本当のことを話せなくても仕方がないだろう。「最も」とか「一番」とかそういう質問のなかの細かい文言には背くけれど、自分が差し出せる範囲の外側の自分のことを話して、それも本当のことということにしよう。この文章もこんな答えに行きつくはずじゃなくて延々と心情とか書いていようと思っていたのだけれど、書いているうちになんだかそれでいいような気がしてきた。外側の自分を作ってきたのだって私自身だ。対外的な私というのは文章に現れる私とも全く違っていて、何も考えていないかのような奴だと自分では思っているのだけれど、厳密に話そうとして何も言えなくなるよりは、何も考えていないような奴が一生懸命ちゃんと話したほうが断然伝わるだろう。結局のところ、対外的な自分を本当の自分と信じたくなかった私のプライドの高さの問題か。

とはいえ内側の自分は私にとって大切で、埋もれさせたくない。自分の記憶というものが私個人の究極の課題であることも、これからも変わらない。内側の自分のことは少しずつ書いていく。就職活動のすえにどんな仕事に就いたって、私にとってはこれが一番大事なのだから、ずっと私の記憶を書いていくのだと思う。

今日は少し内側の自分のことが書けたような気がする。

ある春の日

今日の昼間はよく晴れていたから近所を歩いていた。大学の近くに住んでいて、いまは授業がないからあまり人が出歩いていない。そのかわり、意外と車はたくさん通っていた。前よりも多いくらいだ。窓に隔てられた車のなかは家みたいなものだから、家ごと動いてるようでおもしろい。運転はできないけれど少し欲しくなってしまった。

家の前の道では、シロツメクサツツジがちょっと考えられないくらいの密度で咲いていた。一週間前よりも明らかに視界が鮮やかだ。こんなにたくさんの色と香り、部屋にいたら思いつくこともできない。一年前だって二年前だって同じように咲いていたんだろうけど、今日まで思い出さなかったから不思議。ツツジのピンク色が坂道の両側にずっと続いていて、その間を一人でゆっくり下っていった。なぜか祝福されているような心持ちがした。

家から一番近い定食屋さんがテイクアウトを始めていた。その店先で偶然、近所に住む友人と会って、公園のベンチに離れて座って一緒にテイクアウトの弁当を食べた。少し奥まったところにある遊具の少ない公園で、訪れるのは三回目くらい、ベンチにちゃんと座ってみたのはこれが初めてだ。日当たりがよくてじっとしていても暖かい。日向ぼっこみたいな気分で、戦争の時も普段は案外こんな感じだったのかなって話していた。

食べ終わって、二人であたりを散策することになった。私はよく道に迷うから、一人では決まった道以外あまり歩く気になれない。でも彼女はどんどん行くから私も知らない道にどんどん入っていった。知らない建物がたくさんあった。ここに住むのも4年目なのだけど、知っている場所以外は当然知らない場所で、そういう場所のほうがずっと多いのだろう。旅は徒歩圏内でもちゃんとできてしまう。

このところずっと家のなかで文字を読んでいて、そうできる時間があるのはありがたいことだけどなんだか味気ないとも思っていた。考えることも文字の世界だけでループしてるだけで私のほうまで降りてきてくれないような。足りないと思っていたものの正体は感じることなのかもしれない。考えたことを照らし合わせられるような感覚が、自分のなかになければちゃんと私が考えたという気分になれない。外に出ることって家からの距離が離れることより、そういう新しい色や香りや音や空気に出会うから嬉しくなるのかもしれない。

今日はたくさんの新しいことを感じられて久しぶりにちゃんと嬉しかった。未来の私がこの春のことを思うとき、今日吸った空気の香りも思い出してくれたらいいな。

旅と生活

旅がしづらくなって、かわりにきちんとした生活ができるようになってしまった。

朝起きて、自炊だとか掃除だとかの家事をして、本を読んだり勉強したりして、夜になると眠りにつく暮らし。大学に入って一人暮らしを始めてからというもの、そういう生活を続けられたためしがなかった。夜は考えごとを始めてしまって眠れない、家事は単純に苦手だし面倒、そういう理由でできなかった。それが今になって急にできるようになった。

どうしていきなりこうなったのだろうと、少しだけきれいになった部屋で海苔ご飯を食べながら考える(器用になったわけではないので生活はさほど向上していない)。そして、昼間に十分考えごとができて夜に考えることがなくなるほど、それどころか昼間の考えごとに飽きて時間のかかる家事でも始めたくなるほどに暇があるとき、いつも私は生活よりも旅に出ることを優先していたのだと思い至った。

いつもと逆の電車に乗るとか、乗ったことのない路線のバスに乗るとか、そうやって今まで知らなかった場所に連れていかれるのが好きだった。(旅といってもそんなに遠くじゃなくてよくて、そういう感じのものはとりあえず旅と呼んでいる。)自分の足で見つけたんじゃなくて、電車やバスが通っているからにはすでに誰かの生活があって、それを住民でない私がさりげなく分けてもらっているような感じが特に好きだ。そんな旅は私にとって生活からの逃避先だったのだろうか。事実、自分の生活をきちんとするよりも他人の暮らしを想像するほうがずっとおもしろい。

今となっては、この特殊な状況(新型コロナウイルスの流行)のためにバスにも電車にも飛び乗れなくなってしまった。私はいつも勢いよく旅に出たけれど(真夜中に目が覚めてしまったからそのまま荷造りをして始発電車で県外に出かけたりだとか)、そのときの、絶対行かなきゃいけない今しかない、みたいな思いは私のなかでの話でしかなくて、社会的にはどれも不要不急にカウントされるものだったのか。

生活からの逃避先だとか、不要不急とか、そんな言葉で表したくなかった。私にとって旅をすることはそういうふうに冷静に見ることのできるものだったのかって少し虚しい。というかそもそも、今すごく困っている人たちがいて、その人たちのためにちゃんと考えている人たちだっているのに、経済的に親に頼っていて生活の保証がある私はそのことをまず考えなくて、旅ができないとか考えている、そういうところはもっと虚しい。旅を諦めたらその次にそういうことが思い浮かばなくて自分の生活をきちんとさせてしまうようなところ。

時間のゆとりだってきちんとした生活だってずっと望んでいたものだけれど、そういうわけでなんだか勝手に虚しい気分にもなる。記憶にもまだなっていないとりあえずの現在の記録。

最近考えていること

最近考えているのは、私は何をどうやって書けばいいのかなということです。私は別に誰にも見られていなくたって自分だけのためにあれこれと書いていますが、それはそれとして誰かに見られるかもしれない場所に私の書いたものを置いておきたいという望みはやっぱり消えないものなのです。

ひらがなとカタカナしか書けない頃から書いてきました。昔から覚えておきたいことはすぐに忘れてしまうから。思いついた言葉のメモに始まって、読んだ物語を真似て書いたりもするようになって、ずっとそのまま育ってきました。小さい頃は(本当は身長が伸びなくなってから少しの間も)物語を書く人か自分で歌を作る人になりたいと思っていました。長い話は書いてて途中で飽きてしまうし歌は作っても楽器が弾けないし声も伸びないしで、どちらも不自由なものだったけれど。

今はそういう作品を作ることじゃなくて、書くこと自体に興味があります。私自身のことを私自身のために書くこと。しかもそれを他の誰かがもしかしたら読むかもしれない場所まで手放すこと。「話す」という言葉には「放す」という意味が重なっていると聞きました。解放したいのかもしれない、私のなかだけでずっとぐるぐると思い出しては意味づけてきた私だけの記憶を。

話すことは書くことよりも難しいことなんじゃないかと最近思います。話すことには相手がいるから、私の発する言葉次第でその人の私に対する見方も変わるのかもしれないと思うと言えないことが多すぎるのです。話すことはスピードが速くてもともと苦手というのもありますが。大学の演習でインタビューというものをしたのですが、私が聞かれる側だったら何も答えられないと感じてしまって、何も聞けなくなってしまいました。この頃は就職活動をしているのですが、その面接でもほとんど何も答えられません。なんで初対面の人に人生の挫折経験なんて話さなきゃならないのか、全く納得がいかないので。適当に答えればいいのでしょうけど、私は言葉だけはなるべく適当に使いたくないのです。

そんな感じで、もしかしたら話せないことがあまりに余っているのでずっと書いているのかもしれません。ただ、書くこともなかなか不自由です。あまり深く考えずに何か書いてインターネットの海に放ればいいのですが、そのために大学1年の夏からTwitterをやっているのですが、Twitterだって私以外の人々がいるのでずっと自分にしか見せずに書いてきた私には難しかったんです。あれはタイムラインに触発されて思いついたことを即座につぶやくというのを想定したツールだと思うのですが、私にはどうもそういうことができませんでした。やっぱり現実世界と同じで速いスピードにはついていけないし自分を手放すことには躊躇ってしまいます。たかだかSNSのことでこんなに考え込むのもおかしいかもしれませんが。

ここで書きたいのは私が忘れたくないけれど一度手放したいとも感じるような私の記憶の話です。いろいろと気にすると何もできないので取り急ぎ書ける形で。記憶は層になっていて、同じ事実についても複数の違った意味合いがついていくものなので、同じことを何度も違った形で書いていくかもしれません。文章は読まれるまで待っているものなので読まれるまではひとまず置いておきましょう。読んでくれた方がもしいるのならば心から、ありがとうございます。

人のいない街

晴れよりも雨よりも曇りが好きだって言ってた友だちが、道路じゅうの車には人が乗っているみたいなことを静かに話してくれたこと、思い出した。そんなに仲が良かったわけでもなく、2年間同じクラスにいただけの人。その日はよく晴れた昼間で、友だちは顔をしかめていた。といっても私はその顔を覚えていない。

私たちの教室からは大きな橋が見えた。車がたくさん行き交っていた。

動いてる車はどれも人間を乗せているんだ、その車の持ち主は今、家にいないから、その人が一人暮らしだったとしたらその部屋は空っぽだね。向こうに見えるマンションの、全部の部屋に誰かが住んでいるとしたら、昼と夜とであの建物の密度が全く違うこと、不思議だと思わない?

彼女が発した静かなトーンだけ覚えている。一言一句は違うだろうけど再現するとすればそんな感じの。いつどこで、どんな流れでそんな話になったかなんて覚えていない。何かの偶然で再会したってそんな話はしないだろうな。

その夜、私はベランダから誰もいなくなった学校を見て(私の家は学校からとても近かった)、今日の昼間はいたけれど今はそこにいない彼女の名前を思い浮かべた。彼女の家を私は知らない。私の住んでるマンションは今、昼間よりも重たいんだろうな。誰もいない道とか学校とか会社とかお店とかから人間を吸い上げてしまって。

そんなことをそのとき考えたか考えなかったか。いつもより人のいない街の話をニュースサイトで見て、そういえば最近は外が静かだなと気づいたからなのか、ずっと思い出してしまっている。

忘れたくないから

歩いていると角を曲がるたびに金木犀の香りがする季節になりました。冬は寒いのであまり好きではないのですが、過ごしやすい10月は好きです。だんだん気温が下がっていくのには気づかないふりをして楽しもうと思います。

夏は電車に乗って遠くに行きました。昼間の人の少ない鈍行列車が好きです。線路を走る音が考えごとの背景になってくれるからです。私の知らないいろんな街に運んでくれるところも好きです。駅で扉が開くたび違う匂いが入ってきます。

私はあまり写真を撮りません。どういうときに撮ればいいのかわからないのと、撮ろうとしている間に時間が過ぎて撮ろうとしたものが見えなくなってしまうことが多いからです。撮った写真からうまくそのときのことが引き出せないからというのもあります。スケッチにして残したりもしません。本当はできたらいいんでしょうけど、思い通りに描けないから嫌になるのです。私が絵を描くと線ばかりで何がなんだかわからないものになるか、雲も家も絵本のなかの記号みたいな形にかいてしまうかのどちらかにしかなりません。けれども、覚えておきたい景色はたくさんあります。知らない場所を訪れたときは特に。

通り過ぎても頭のなかに残っている景色があります。断片的で、あまり鮮やかではありません。しばらくは、そのとき感じた香りや印象も一緒になって残っていますが、そういう形のない感覚はすぐに流れて消えてしまいます。その景色をいつどこで見たのかというようなこともいずれ曖昧になって、欠けた景色だけが脈絡もなく残ります。私のなかには、そういういつ見たものなのかわからない景色がたくさんあって、いつのまにか考えごとの背景として使われていたりします。その景色を見たときの状況は思い出せないのに、なぜか絶対に忘れてはいけないとそのとき強く思ったことだけよみがえってきて、全部覚えていられたらよかったのにと後悔したりもします。

私は、写真を撮るかわりに、私が勝手に切り取って頭のなかに残してしまった景色をそのとき感じたいろんなものと一緒に留めておこうとします。絵のかわりにたくさんの言葉を使います。言葉を結び付けておくだけで不思議と、いろんなものがひとまとまりになって残ってくれます。

私の本当の願いというか、潜在的な一番の行動原理は、忘れたくないということなんだとこの頃思います。忘れられたくないというようなことを一番に考えたこともあったけれど、それはほんの少しでいい。本当に身近な人たちに私の存在の欠片くらいが忘れられないでいたなら十分です。それ以上に私は、私のなかを通り過ぎていく大事なものをなるべく忘れずにいたいのです。電車から見たいろんな街の景色や、街の人々の暮らしについて考えたことも、日常のこと、周りの人たちのことも、宝物を集めるみたいに大切に取っておきたいと思うのです。

手に触れないのが好きで、怖い

不思議なものが好きです。目に見えない、手に触れない、曖昧なものばかり好きになります。でもそういうものは知らないうちに消えてしまうので、いつも不安になります。あると思っていたものが本当はないんじゃないかと怖くなります。不安なのとか怖いのはあまり好きではありません。

私が記憶とか感覚とか、自分でもよくわからないようなことを考えるのは、不思議すぎて考えずにはいられないからです。昔あったことで覚えてることと覚えてないことがあるのはなぜなのか、覚えてない記憶はどこに行ってしまったのか、人によって記憶が違うのはきっと感じ方が違うからだ、だったらなんで感じ方が違うのか、記憶や感覚にはどういう形があるのか。考えないと、私の今の記憶も感覚も、すぐに忘れてしまうから、その不安から考えずにはいられないのです。

その一方で、そういうものばかりを好むせいで考えることが手ざわりの薄いものばかりになってしまうのはやはり怖いのです。私の頭のなかには消えるものしかないということが怖いのです。

私が考えごとをしているとき、他の人たちは動いていて、私がたまに水のなかから顔を出すように周りを見渡すと、彼らはずいぶんと変わっています。私が子どもみたいなままで内面を深くまで掘り進めることに精を出していたら、周りは大人になって、内面にも大人らしいものを取り込んで、外身も中身も全く違っていくんじゃないかと思うと少し怖いです。考えすぎかもしれないですけど。

だから今は手ざわりのあるものを大事にしたいと思っています。手ざわりの薄いものに少し手ざわりを足してみたいと思っています。主に人間関係のことです。今会える人たちとなるべく会いたいし、会ったことのないいろいろな人に会ってみたい。

私の思うことを話してみたい。その人の思うことも聞いてみたい。私とその人との間に、確かなものとして対話があってほしい。誰かのなかに私のことを残したいし、私のなかにいろんな人たちのことを残したいです。

いつでもどこでも、会いたいときに誰かに会えたらいいなと思います。考えごとをして、それを誰かにあったときに話したいなと思います。とても都合のいい考えですが、実現する方法はあるのではないかと思っています。