水のなかの色

あいまいなものについて、考えごと。

私のなかの海と空と地上

私だってもともとは地上にいた。地上では、たくさんの見えない何かがあれしてこれしてと私に向かって訴える。どれも私には叶えられそうになくて縮こまる。それらが上から押し寄せてきて、私はどんどん地面に埋め込まれる。もうどこにも行けない。そのとき、地面が突然柔らかくなる。ここは海だ、助かったと、私は存分に沈む。海底に届くころ、私はずっと上空で遊ぶ自分を思い浮かべる。いつしか私は雲の上にいる。私の身体はもうなくなってしまっただろうか。言葉だけになった私は重力の少ない雲の上でずっと遊んでいる……

もちろん比喩である。実際の私には身体があってずっと地上にいる。海は私の内面的な考えごとの場所で、空は私の空想のための場所、どちらも私の思考のなかの空間だ。考えごとをするときは、深い海のような場所に沈んでいくような感覚がある。たまに、考えごとのなかでもキラキラしたものだけが空に昇っていくので、雲の上でそれらと戯れる、ような感覚がある。これらは私の空想のなかでの感覚でしかないけれど、とにかく子どものころからずっとあるもので、確かなものなのだ。

この私のイメージのなかで、現実の比喩である地上に、私がいる(ような感覚がある)ことはほとんどない。現実から逃れて考えごとや空想をするときのためのイメージなのだから当たり前かもしれない。地上つまり現実が、苦しいというわけでもない。ただ、私の想像のなかの地上は見えない塊と圧力だけがあるというイメージで、ひたすらよくわからない場所だから、そこにいながら存分に考えごとができる気がしなくて逃げてしまうのだ。もちろん現実は普段そこで生きている場所ではあるのだけれど、私は現実のなかでも都合のいいところだけ覚えておこうとしてしまう。好きな人たちに会えること、ほかの人たちのそれぞれの生活があること、そういうのは現実世界のいいところだ。あとは花の名前とか星の形とか、結局、海底や雲の上に連れていくのにふさわしいキラキラしたものばかり取っておこうとしてしまう。結局私は、考えごとに浸ることや空想のなかで遊ぶことが安心で、好きで、大事だから。

そんな感じで生きてきたのに、最近は海に潜れないしもちろん雲の上にも行けない。こんなに時間はあるのに、ずっと現実の地平と接している。もう私のモラトリアムもあと一年しかないので(都合が悪いからまだ疑っているのだけれど、どうやらそうらしい)、現実のいろんなことをちゃんと考えないといけなくなった。就職活動、卒業研究、政治・経済のこととかいろいろ。目下のところ特に考えないといけない一年後に始める仕事のこと。いろいろと将来の夢はあったけれど、どれも本当に私自身がその仕事をしている想像がつかない。空想に逃げようとしても、行き先が未定であるという事実が浮かんでくるのでうまくいかない。かといって現実のことを考えようとしてもよくわからないしちゃんと自分が考えているような気がしない。想像上の地上にいて、何も見えないし動けないままずっとそこに佇んでいる。実をいえば最近だけじゃなくて一年くらい前からずっとそんな感じだ。現実世界(想像上のではなく本物の現実世界)でいかにも将来の自分のためになりそうなことばかりしてごまかしていた。最近はこの状況だから、行動しているふりもできない。

本当は私のための空想じゃない、現実のことも、考えようとはしてきた。現実社会のこと。もともと自分以外の人たちは好きだし、その人たちのいる社会のことには惹かれていてちゃんと考えたいと思っていたから、ずっと勉強していた。だけど膨大な社会の像は私的な考えごとと空想の空間にはには取り込めそうになかったし、無理やりそうしたってそれは社会の幻想でしかないと思った。それでいくら本を読んでも私のなかで社会は見えない塊のような姿でしか思い描けなかった。こんな状態ではほかの人たちを含めた広い社会のことを考えるどころか、自分が出ていく先の狭い社会のことも想像できないし、それについて思考できない。

 

と、考えていたのがさっきまでの話だ。今日の昼間にこの文章を打っていて、少し時間が経ったら解決策のようなものを思いついたのでそれについて書ける分だけ書いておきたい。(最近こういう、書きながら気が変わることが多いのだけどこれはどうしてなのだろう。)

私が現実社会について考えるための空間を、私の比喩の世界のなかに新しく作ればいいんじゃないか。海や空は私的な考えごとや空想のための空間だから、現実に対応する地上についてのイメージを設定すればいい。現実はもちろん私が把握できないほどの膨大なものだから、いま私にわかっている部分だけ、いま私が考えたいことに関係する部分だけの暫定的なものとして。本当はそれを言葉だけですればいいのかもしれないけれど、私は抽象的なバラバラの言葉を並べるだけでは本当に考えている気がしなくて、それだから空想の世界にキラキラした具体物についての言葉や私自身の確かな感覚についての言葉をためこんでいるところがある。記憶とか意識とか、私の考えたいことは大概、それだけでは何なのかよくわからない曖昧なものばかりだから、物や感覚と絡めておかないと私のなかで意味をなさない。だから比喩でできた想像上の世界を作りこむのだ。現実というと広すぎるけれど私にとっての現実、私と現実が接しているような事象を比喩にして私のイメージの世界に取り込む。そうすればとりあえず現実はわけのわからないものではなくなって、それについて考えることだけはできるようになるはずだ。想像のなかの地上で私は動くことができるようになるかもしれない。いままで知ってきたことをこの空間に位置づけるようにして考えてみよう。

空想の世界も取っておける。私は、現実のことばかり考えていたら、大事な空想の世界に入れたくないものが入り込んできてぐちゃぐちゃになってしまうんじゃないかと考えていた。でも現実のことを考えるための空間が、空想のための空間と同じ次元に違う位置取りであるのなら、私的な考えことも空想もそれはそれとして今までどおりできるだろう。海と空と地上のあれこれがある私のなかの世界。この世界で存分に内面のことも社会のことも考えていこうと思う。