水のなかの色

あいまいなものについて、考えごと。

見えているのにできないこと

目の前にあるものをやりたいと思うのにできないことが多いです。

数か月前に会社に行きはじめて、特にそういうことが増えた気がします。

会社にはたとえば遠くにでかけていく人たちがいるのに、私は動かずに作業を続けなければいけません。何かをつくってみんなにふるまう人たちがいるのに、私はそれを受けとるだけで、お返しに何かつくることはできません。会社の本棚には読みたい分野の本がたくさんあるのに、私は自分の作業に関係のある資料しか読めません。

私の仕事はおおまかにいって事務系で、個人情報の入力や行政に提出する資料の作成をしていることが多いのですが、これはほかの部門の人たちにあまり見せてはいけないようだし、見せたところで驚かれたりうらやましがられたりするような類のものではありません。

遠くに行くのが好きなのに、会社でやる作業が多くてあまり遠くに行けません。いつも行くところは決まりきっているし近場が多いです。なのにほかの人たちが仕事ででかけたときの領収書はたくさん届きます。私もそこに行きたかったなと思います。

データ入力や資料作成は、文章を読解したり文字を打ったりすること自体は好きですが、読むなら好きな分野の本が読みたいし書くなら書きたいことがいいです。それで自分がやっている作業がそんなに好きになれません。

好きじゃなくてもやるのが仕事だって聞いたことがあります。任されたことに意味を見出して責任をもってやるのが仕事なんだって。意味があることなのはわかっています。私がやっているようなことは、会社が続いていくために必要なのでしょう。でも会社のこととか責任のこととかいまいち実感をもってわからないし。目の前に見えている、仕事の時間じゃなければすぐにでもとりかかれるようなささいなやりたいことができないのがつらいです。

ほかの部門の人たちと会えない小さい部屋で作業してたらこんなことも思わなかったかもしれません。ほかにやりたいことがなければ集中するのはわりと得意なので、没頭して作業を進めて終わったあとにそのときの感覚を思い出さないみたいなこともできるといえばできます。だけどそういうのはもっとやりたくないです。自分が自分じゃないまま時間だけどんどんたっていくような感じがするので。

やりたいことがたくさんあって感情が動いたほうがずっといいです。感情だけ動いて実際に自分は動けないからつらいだけで。

やりたいことをがまんすることが増えたということは、興味をひかれるすてきなものが会社にたくさんあるということなのでいいことです。そんなすてきなものが見えてしまっているのに自分はそれに触れられないというのがただただ耐えがたいのです。仕事の時間はやりたいことがやれない葛藤とずっとたたかって、帰ってきたら疲れていて大したことができません。

はたらくかぎりずっとこのままなのかな。

私もそうなりたい

すてきなものをつくれる人にあこがれてきました。

さいころはお花屋さんかケーキ屋さんになりたくて、いろんな色の花束やケーキのことばかり考えていました。道端の花をつんでブーケをつくり、親に頼んでケーキを焼かせてもらいました。だけど私の小さな花束はいつも帰り道でしぼんでしまったし、ケーキもうまくふくらまなかったりベタベタしていたり、クリームを塗ったらスポンジ部分がボロボロになってしまったり。お店のようにならないのはわかっていましたが、自分が満足できるものにすらなりませんでした。

お店屋さん以外でも、すてきなものをつくれる人にはいつもあこがれました。かわいい女の子の絵が描ける友だちや、ビーズでキーホルダーをつくっている友だちがいました。でも私は輪郭や瞳の枠線がどう頑張ってもきれいに描けなかったし、ビーズはいつも途中でバラバラになってしまいました。

手先が不器用でも言葉ならすてきなものがつくれるんじゃないかと、いつだったか考えました。物語を書く人か歌詞を書く人になろうと思って放課後にずっと文章を書くようになりました。物語は脱線してうまくまとまらず、ほとんどは完成すらしませんでした。できあがったいくつかの短編も誰にも見せられないままノートと一緒に消えてしまいました。歌詞も、楽器が弾けないし歌うのも恥ずかしくて曲にすらならないままノートのなかにたまっていきました。

それでよかったんです。ほかのいろんなすてきなものとちがって、ささやかながら自分だけは満足させられるものをつくることができたから。小説家にもソングライターにもなれなくていい。自分のつくりたいときに少しだけ書いて、自分ひとりがすてきだって思えたらそれでいいと思いました。認められたいわけでも評価されたいわけでもないと思っていました。今こうしてブログを書いてネット上に放っているということは、誰かに見てほしいしすてきって思ってほしいってことなのでしょうけど。過去の私だって本当はそうだったかもしれません。

すてきなものをつくる人にあこがれる気持ちは今も止まっていません。それどころか強くなるいっぽうです。つくれない自分がいやなのです。

会社には料理をする人や写真を撮る人がいます。業務じゃなくても、植物を育てたり花をつんできて飾ったりする人もいます。とてもすてきだと思う一方でくやしい気持ちにもなります。どうしてそれをするのは私じゃないんだろう。私にそれが任されることはないし、今の私が手を出したらきっとだめにしてしまいます。だけど、どうして私はすてきなものを見て味わって楽しんでいるだけで、それをつくれないのかって思います。つくりたい気持ちはこんなにあるのに。

そういう衝動をためこんで家に帰ってきて、料理をして失敗してギターもうまく音が出なくて、またひとりだけのノートにたくさん書いて、それを翌朝になって文章にして、まとまらなくて公開できないこともあって、そんな日々です。今からでもちゃんと練習したらすてきなものがつくれるようになるかな。うまくいかなくても投げださずに少しずつやってみようとは思います。

テーマがほしい

けっきょく私は何がしたいのか、とよく考えます。

すごく得意なこととか好きなこととしてあげられるものがありません。一番好きな考えごとにしても、考える対象はすごくあいまいです。なんとなく、感覚とか記憶とか感性とか倫理とかそのあたりだとは思います。偶然にもどれも形のないものばかり。

テーマがほしいです。人生のテーマとかそこまで大きなものじゃなくても、思い切り探求できる何かがほしいです。

大学時代、私には「〇〇学」みたいに名前のつく専攻がありませんでした。哲学も心理学も社会学文化人類学も興味はあったけれど、どれも中心的な研究手法になじめそうになかったし、そもそも体系的に学ぶみたいなことが苦手だったし、論理的にも客観的にも分析的にも行動的にもなれそうになかったのでどれも専門にできなかったのです。

ざっくりと「人文・社会科学系の質的研究」に興味をもって、そういうことを広く扱っている研究室に入りました。卒論は書きたいこと(日頃から考えている、感覚・記憶・感性・倫理のこととか)では書けなくて、けっきょく書けそうなテーマを設定して書きました。考えることや文章を読んだり書いたりすることが好きだったので高校生のころからずっと研究者にあこがれていたけれど、大学ではそんな感じだったのでちょっと自分に失望してあきらめました。生活するためのお金を手に入れられる力もなさそうだったし。

そうしてアカデミー的な意味での研究はやらないことになったのですが、研究テーマみたいなものが自分にもほしいとはずっと思っています。言葉にできる、明確な範囲をもった研究テーマがこのごろは特に切実にほしいです。数か月前に大学を卒業して仕事をはじめて、自分ひとりが生活するのには十分なお金を得られるようになりました。ずっと眠るのが下手だったのに最近なぜかよく眠れるようにもなりました。会社に行く前の朝と会社が終わった夕方にはけっこうたくさんの時間があります。だから今なら現実のことをあまり心配せずに何かを探求できそうな気がするのです。

ここで、けっきょく私は何がしたいのか、という最初の文に戻るのですが、それを具体的に考えていくことがひとまずのテーマになるかもしれません。今は大学にいるわけでもないので専門分野は「〇〇学」とかではなくていいような気もしてきました。とりあえずおおまかな専門分野は「感覚・記憶・感性・倫理についての考えごと」にしてみます。そのなかで具体的にどんなことを考えたいのかとか、そのために何を調べるのかとか、そういうことをまずは考えていきたいと思います。

クリーム色のギター

クリーム色のエレキギターを買いました。

まだアンプにはつないでいませんが、何度か弾いてみました。弦を押さえるのがうまくないのでメロディーもコードもまともに鳴りません。でも電車に乗ってるときに聞いたことがあるような音が出て楽しいです。

自分のギターをもつのは3回目で、高校生のときと大学生のときにそれぞれ中古のアコースティックギターを買ったことがあるのですが、どうしてもうまく弾けなくてかなしくなって手ばなしてしまいました。なのにギターが弾きたいと懲りずに思ってしまいます。

私は楽器も弾けないし絵もうまく描けません。というよりも絵を描くとか楽器を弾くとかいう以前の問題で手先が不器用すぎるような気もします。線を引こうとしてもぶれて直線が引けません。円を描いてもはじまりの点とおわりの点がつながらないし。ピアノはちゃんと手元を見ていても弾きたいところじゃないところに指がいってしまいます。

昔からグラスや花瓶もすぐ割ってしまって、大事なものほどすぐ割ってしまうから触れるのに勇気がいります。新しいものは壊れやすそうに見えてあまり触りたくないです。そのせいで物にあまりしっかりと触れてこなかったから不器用なままなのかな。

新しいギターも壊してしまいそうで怖々と触れるのは前回とも前々回とも変わりませんが、3回目になってようやくそんなに壊れる心配をせずひけるようになりました。これでやっと音の出し方を存分に探せるような気がします。

すぐに曲が弾けなくてもかなしくならずに今回は続けてみようと思います。クリーム色のかわいいギターです。部屋にあるだけでもうれしい今の気持ちを忘れたくないです。かなしいものにしたくない。

うまく音が出なくても丁寧に手入れして大事にあつかって、一音ずつ味わっていきたいです。思い通りの音が出せないなら、弦を押さえずにそのまま弾いたときに出るきれいな音を楽しんでもいいし。ひとつずつ音を鳴らせるようになっていきたいです。

そうやっていつか、このギターで好きな曲が弾けるようになりたいな。

ここにいるのは何のため②

前回の続きのようなそうでもないような。

どうして自分がここにいるのか、どうしてこの作業をやっているのか、と会社にいるときよく思うと書きました。はたらく目的がわからなくてそう考えるんだとそのときは書いたけれど、それも正確じゃないような気がしてきました。

たしかにはたらく目的はわかりません。私がやっているのは会社の物やお金や、会社の人のスケジュールや個人情報といったものを管理する仕事みたいです。だけど私自身は物やお金や時間にかなり無頓着です。すぐに部屋のなかで物をなくすしよく考えずに買い物をしてレシートはすぐに捨ててしまいます。休みの日に電車に乗るときも家を出るのが遅くなって乗りたい便に間にあいません。きっちりする意味がよくわかっていないのです。当然、仕事のほうもよくわからないままやっています。

とはいえ、会社に行くことには価値も感じているのです。毎日顔をあわせてしゃべれる人がいるので朝早くてもでかけていく気になれます。今やっている仕事も、これまでの私ならしなさそうなことが多くて、はじめてやってみると新しく知ることがあるので楽しいです。会社の人たちのやっていることも内容はよくわからないのですが、いろんな仕事をしているようで見ていて楽しいです。お金ももらえるので生活したり休日に友人と遊んだりできます。だからなるべく続けていきたいとは思っています。

会社や仕事とはまったく関係のないところで、私のやりたいこと、大げさにいえば生きる目的のようなものがあります。考えごとをすることと友人たちと会って話すこと。けっこう単純なそれだけのことが私の目的です。こっちのほうがはたらく目的よりもずっと、私の感覚に大きな影響をもっていそうです。

大学生のあいだ、どうして自分がここにいるのかという気分にあまりならなかったのは、この目的がけっこう満たされていたからだと思います。講義中ずっと考えごとをして本を読みながら考えごとをして、期末のレポートで考えたことをまとめて、それがよいこととされる環境でした(文学部は私にぴったりだった)。専門分野はあいまいでよくわからなかったし成績もそんなによくなかったけれど、ずっと考えごとができました。そのせいで生活はおろそかになっていましたが。

友だちもいました。入っていたサークルの友人たち。彼らの多くは今も大学のある町の近くに住んでいます。私は会社に入るためにひっこしてしまったから、電車に乗って川を越えて山を越えて行かなければ会えません。ずいぶん遠くに来てしまった感じがします。

どうして私は大学生ではなくなってしまって、どうしてここには友人たちがいないのか、と思います。どうして考えごとにふけりたいのも友人に会いに行きたいのも考えないようにして仕事をしているのか。やっぱり「何のために仕事をしているのか」という目的が、考えごとと友人に会うことという楽しみを上回らないからこの疑問は生まれているようなのですが、かといってこれを上回る目的を仕事に見いだせてしまったらそれはそれで悲しいかもしれない。だから今のままでいいです。

なんだかまとまらない考えごとになってしまいました。でも考えごとはまとめることが目的ではないのでこれでいいのです。まだしばらく平日は自分があいまいなままかもしれませんが、休日は考えごとをしながら電車に乗って、友人たちに会いに行こうと思います。

ここにいるのは何のため

どうして私は今ここにいるんだろう、と会社にいるときよく思います。私はどうしてここにいて、どうしてこの作業をしていて、どうしてこの人たちとしゃべっているのか、みたいなことが1日に何度も頭に浮かびます。数か月前に大学生から会社員になったばかりなので、会社での生活がなじんでいなくてそう感じるのかも思いました。だけど、思えば中学生になったときも高校生になったときも大学生になったときも自分がここにいることが不思議だという感覚はあったものの、こんなに強くはなかったしこんなにずっとでもありませんでした。これは私にとってけっこうな問題なんじゃないかと思います。

大学生のころ、自分が将来はたらいているイメージがもてませんでした。アルバイトがどれも長続きしなかったからです。失敗をしすぎるせいで、もう来なくていいといつも言われるのです。レストランも塾講師もコンビニもうまくいきませんでした。シフトの時間をまちがえたりレジをまちがえたり器をたくさん割ってしまったり。それに私は立ちっぱなしでじっとしているのが苦手だったり、わからないことをさもわかっているかのようにふるまうのが性にあわなかったりしたので、実のところ、来なくていいと言われる前からやめたいと思っていたものもいくつかありました。だから仕事で自分にむいているものはなくて、どれもすぐにクビになるかきつくてやめてしまうかのどっちかだろうと考えていました。

そんなわけで私の会社を選ぶ基準は、続けるのが無理にならないことでした。土日が休みで、夕方には帰れて、1階だての小さい建物で、怒鳴るような怖い人がいなくて、ゆっくりした雰囲気のところ。そんなところはなかなかみつからなくてようやくみつけた会社です。おかげでとてもすごしやすく、通うのが苦になりません。仕事もまだそんなに任されていないのでゆっくりやっても大丈夫です。失敗はときどきするけれどとりあえずは毎日楽しくすごせています。それで何も問題はないはずで、ここにいることに疑問をもつ必要なんてないはずなのにな。

たぶん、仕事が多くて忙しくてつらいとかはまったくなくて、むしろ何かが少ないんです。何かが足りないという感覚があります。足りないのはおそらく、何のためにここにいるのかとか何のためにこれをやっているのかという、いわゆる目的です。はたらく目的がわからなくてむなしいなんて、大人の悩みとしてすごくよくありそうです。自分のことを大人だとすら思えていないのに私はもうすでに会社員で、会社員のありふれた悩みみたいなものを知らず知らずのうちにもっていたなんて不思議です。

とはいえ、けっきょく私は何のために会社にいて何のために仕事をしているのでしょうか。私は何を目的にしたいのでしょうか。会社に行く時間になってしまうので続きはまた別の日に。

何もかもやめてしまったら

もし私がいきなり何もかもやめてしまったらどうしよう、とよく思います。

数か月前から行きはじめた会社は時間どおり夕方に帰れるし、職場の周りで草花をつんできて飾っていたりするようなやさしい雰囲気のところで、やめたいなんてみじんも思わないのですが、自分がある日ふとここに行かなくなってしまうんじゃないかという考えがよぎるのです。会社だけじゃなくてこの生活のすべてをやめてしまうんじゃないかという考えすら浮かびます。いつか自分が会社員でこの土地で一人暮らしをしているのが信じられなくなってある朝とつぜん旅に出てしまったりするんじゃないかとか。

おととい会社にいるとき具合がわるくなって、それはすぐに終わったからいいのですが、物理的な自分の存在が会社から完全に消えてしまって意識だけの存在になった自分が会社のまわりをぐるぐると飛んでいるところをそのあいだずっと想像していたので、そのせいでなおさら自分がすぐに会社からいなくなるという考えが頭から離れません。もともと自分に体や手足があることもあまり信じられていないし、いつも海のなかから外の世界を見ているような気分だし、とにかく自分が不確かだからこんなこと考えてしまうのだと思うのですが。それに現実の過去の私がちょっとしたことで何かを投げ出したということが多すぎて、自分が信用ならないというのも大いにあると思います。

さいころビーズも編み物も作りおわらないまま放っていました。小学生のとき通っていたダンス教室は半年で行かなくなりました。受験勉強も途中で何度かやらなくなって、けっきょくがんばらなくても入れそうなところをみつけるまでがんばれませんでした。何より大学のころアルバイトを短期間でいくつもやめたのがよくなかったと思います。むこうからやめるように言われたこともあるし、自分でやめたのもあります。それで仕事とか労働というカテゴリーのものを自分が長いあいだ続けられるイメージがもてないのかも。

大学のころ、どうしてもうまく眠れなかった半年間があって、3日に1回深夜のコンビニに行くだけでほかは何もしていませんでした。自分以外だれもいない部屋で、だれかが作った電気をつけて、だれかが作ったペットボトルの水を飲んでだれかが作ったカップラーメンを食べて、ゴミを出して眠っているだけ。そんな日々はもう二度と送りたくないです。下手でも何か仕事をしていたほうがずっとマシだと思います。だけど今また夜に眠れなくなって昼に眠るようになったらどうしよう。眠れなくなったらどうしようって考えてそのせいでほんとうに眠れなくなったらどうしよう。そうして数日間眠れなかったらそれだけでもう会社には行けなくなってしまうでしょう。そうなったらまた何もできない生活になってしまうのかな。

会社には何人か、私が生まれるよりも前からここで仕事をしていたという人がいます。数年間より長く働いている人はもっといます。同じ時期に会社に入った人たちもみんな、少なくとも何年かはここにいるつもりでいるでしょう。私だってほんとうはそのつもりなのですが。

朝起きて夜眠れる最近のような暮らしを手放したくないです。そう、たしかに今の生活を手放したくなくて、そのためならとつぜん旅に出たくなってもおそらく実際にそうすることはないと思うのですが、つい思いついてしまうことをやらないようにするのはとてもがまんがいるはずです。旅には出なくても、もし朝どうしてももう一度眠ってしまったりしたら?仕事でとんでもない失敗をして逃げ出したくなったら?何もかもやめてしまうきっかけはいくらでも思いつくのに、それをぜんぶかわしてやめずに続ける自分があまり想像できません。こんな考えが何年もずっと続くのだとしたらそれだけでいやになります。今日はちゃんと会社に行けそうだけどこの先ずっとはわかりません。ほんとうに私はこれからどうすればいいんだろう。