水のなかの色

あいまいなものについて、考えごと。

きちんとした生活

私はあまりきちんとした生活していません。

空想の中でなら、けっこうきちんと暮らしています。いろんな時代のいろんな家といろんな町を思い描いて、その世界の中で理想の生活を送るというのは好きで、よくやります。

特によく行くのがハイジの世界で、チーズを暖炉でとろとろにして食べたり、干し草のベッドの香りをかいだりしています。

どんな世界に行ってもちゃんと夜は寝て朝早くに起きて、料理を作って食べて、昼間もいろいろと忙しく働きます。

それなのにどうして現実の私はきちんとした生活をしようとしないのでしょう。

自炊はしないし、片付けは足の踏み場がなくなるまで、洗濯は着る服がなくなるまでしないことがあります。寝るのを後回しにして、深夜や明け方になって、次の日時間通りに起きられなかったりもします。

私は生活に興味がないのです。生活よりかは考えごととか空想に惹かれます。

毎日毎日同じ家の中で同じパターンを繰り返すのには飽きてしまいます。素敵な生活を作り上げたとしても現実の生活になるのは一つのパターンだけで、損した気分になります。

かといって毎日違う種類の素敵な生活をしていたら、とても気力を使います。初めてのパターンを再現するだけで一日が終わってしまうような気がします。

と、考えましたが結局は、私があまり生活を得意としないのが原因のようにも思います。もしくは生活に比べて空想ができすぎるのかもしれません。

素敵な生活をしている人は、例えば料理をすればある程度おいしいものができるからこそ、自分のためにでも家族のためにでも、作れるのだと思います。

私の料理は私にとって奇妙な味で、あまり食べたいと思わないのです。それとも私が想像のなかで自作のおいしい料理を食べすぎたせいで舌が肥えてしまって、期待が高くなりすぎたのでしょうか。

きちんとした生活を送れないのは、素敵な生活を求めるにも関わらず、私にとって十分に素敵と思える生活を維持する気力も能力もさらに言えば本当の意味での動機も私にはないからです。

今気づいたことですが私はきちんとした生活について考えていたはずなのに、基準を生活の素敵さに置いているようです。思うに私は「きちんとした生活」という言葉に「回っている(機能している)生活」と「素敵な生活」との両方の意味を込めていて、私が本当に求める生活は後者ではなく前者ということだと思います。

きちんと生活を回したいということなら、私は心から思っています。生活が回らないとやりたいことが何もできません。

そのために私は素敵な生活を心から諦める必要があります。ちょっとでも素敵さを求めると、想像と現実の落差にがっかりして生活どころではなくなります。

今までだって特に素敵な生活をしようとしていたわけではありませんが、素敵さへの未練があって、私の生活と理想の生活を重ね合わせると悲しくなって家事が手につかないということがかなりありました(こういうとき私は頭のなかでは悲劇のヒロインです)。

そもそもきちんと生活するための一番大きな動機になりうるのは、もっとしっかり考えごとがしたいということです。生活なんかに邪魔されず、じっくり考えて、新しい考えごとをいつも楽しみたいのです。

素敵な生活はたまにでいいやと思います。普段は頭のなかでやっていればよいのです。頭のなかで盛大に楽しむために、生活を最低限で安定させるのです。

理想を追い求めすぎず現実にとって必要な最低限の生活をすればいいという当たり前の結論に達しましたが、この文章を書いている間に私が私に許せる最低限の生活は、夕ごはんを大豆缶と野菜ジュースで済ますレベルに到達しました。(大豆缶も野菜ジュースも好きなのでこれなら続けられると思います。)

きちんとした生活から素敵な生活を引き離す前の最低限の生活は自炊が条件に含まれていて、それをできないことも悲しさの一因でしたから、かなりの進歩です。

こんな方向に進歩していいものか、よくわかりませんが、やってみます。これで生活が回るのならば、回っていない生活よりかはきちんとしていると言えるでしょう。素敵な生活ではないかもしれませんが。それともこういう生活が私になじんでくれば、素敵な生活の一種になるのかもしれません。