水のなかの色

あいまいなものについて、考えごと。

忘れたくないから

歩いていると角を曲がるたびに金木犀の香りがする季節になりました。冬は寒いのであまり好きではないのですが、過ごしやすい10月は好きです。だんだん気温が下がっていくのには気づかないふりをして楽しもうと思います。

夏は電車に乗って遠くに行きました。昼間の人の少ない鈍行列車が好きです。線路を走る音が考えごとの背景になってくれるからです。私の知らないいろんな街に運んでくれるところも好きです。駅で扉が開くたび違う匂いが入ってきます。

私はあまり写真を撮りません。どういうときに撮ればいいのかわからないのと、撮ろうとしている間に時間が過ぎて撮ろうとしたものが見えなくなってしまうことが多いからです。撮った写真からうまくそのときのことが引き出せないからというのもあります。スケッチにして残したりもしません。本当はできたらいいんでしょうけど、思い通りに描けないから嫌になるのです。私が絵を描くと線ばかりで何がなんだかわからないものになるか、雲も家も絵本のなかの記号みたいな形にかいてしまうかのどちらかにしかなりません。けれども、覚えておきたい景色はたくさんあります。知らない場所を訪れたときは特に。

通り過ぎても頭のなかに残っている景色があります。断片的で、あまり鮮やかではありません。しばらくは、そのとき感じた香りや印象も一緒になって残っていますが、そういう形のない感覚はすぐに流れて消えてしまいます。その景色をいつどこで見たのかというようなこともいずれ曖昧になって、欠けた景色だけが脈絡もなく残ります。私のなかには、そういういつ見たものなのかわからない景色がたくさんあって、いつのまにか考えごとの背景として使われていたりします。その景色を見たときの状況は思い出せないのに、なぜか絶対に忘れてはいけないとそのとき強く思ったことだけよみがえってきて、全部覚えていられたらよかったのにと後悔したりもします。

私は、写真を撮るかわりに、私が勝手に切り取って頭のなかに残してしまった景色をそのとき感じたいろんなものと一緒に留めておこうとします。絵のかわりにたくさんの言葉を使います。言葉を結び付けておくだけで不思議と、いろんなものがひとまとまりになって残ってくれます。

私の本当の願いというか、潜在的な一番の行動原理は、忘れたくないということなんだとこの頃思います。忘れられたくないというようなことを一番に考えたこともあったけれど、それはほんの少しでいい。本当に身近な人たちに私の存在の欠片くらいが忘れられないでいたなら十分です。それ以上に私は、私のなかを通り過ぎていく大事なものをなるべく忘れずにいたいのです。電車から見たいろんな街の景色や、街の人々の暮らしについて考えたことも、日常のこと、周りの人たちのことも、宝物を集めるみたいに大切に取っておきたいと思うのです。