水のなかの色

あいまいなものについて、考えごと。

石と空のこと

このあいだ朝焼けのなかを自転車で走っていて、宝石みたいな色だ、と思いました。そのとき、小学生のころ何度も読んだ鉱物図鑑が思い浮かんで、懐かしかったので今日は石と空のことを書きます。

小学生のころ、鉱物図鑑が好きでした。きらきらした宝石の写真がたくさん載っている本です。

宝石は高級な物だなんていう意識もなかったので、誕生日プレゼントに水晶玉(魔女にもあこがれていたので)をねだって父を困らせたこともあります。でも本当はきれいなものなら何でもよくて、河原で拾ってきたすべすべした石も、道端で拾ったガラス片も私にとっては同じように価値のあるものでした。

そのころの私にとって、きれいなものとは見るためのものでなく、もちろん所有して他人に見せるためのものでもなく、ただただ文字通り入り込むためのものでした。

写真を見て、色と形と手触りを思い浮かべて、そのうち私がその石になったような気分になるのが楽しかったのです。本当に鉱物の中に入り込んだ気になって、透きとおった色の中を泳いだり、地面から掘り出されたりカットされたり、手のひらに包まれたり床の上に転がったり割れたりしていました。

私は小学生のころの思い出が曖昧なのをいつも不思議に思うのですが、このころは何にでも入り込んでいたせいであまり周りを見ていなかったからなのではないかと考えています。

学校の構造もクラスの人たちの顔も覚えていないかわりに教室の花や机になった気分は覚えていますし、習い事に行く道はよくわかっていなかったのに途中にある桜の木になったときの視点とか、土や木の根になって踏まれる感触は今でも思い浮かべられます。

大学生になった今では何にでも入り込んでいたら生活が回らないのであまりやりませんが、今でも空の色がきれいなときは空の一部になったような気分になることはよくあります。空は丸ごと身を浸せるので入り込みやすいのです。

春の夕日の金色が広がった空とか、冬のなめらかな白い雲でゲレンデみたいに見える空とか、いつか見た一瞬の空がたくさん私のなかには残っていて、そういう空はいつまでも忘れないように思えます。

朝や夕方の空は水色、桃色、紫、黄色、藍色、いろんな色が混ざって溶けあいながら、時間と一緒に移り変わっていきますが、それに合わせて私の色も変わっていくような気がします。夜空は布みたいで、包まれているような気がします。

鉱物の写真でも空でも、それに私が入り込んで私がその一部になっているとき、私はどこにいるのでしょう。自分の存在なんて意外と自分でも忘れているときが多いのかもしれません。こう思うのは私だけで、ほかの人はいつも自分が自分としてあると思っているのでしょうか。それとも自分の存在を普段は忘れているのは意外なことではなく当たり前のことで、私が今ふと気になっただけでしょうか。