水のなかの色

あいまいなものについて、考えごと。

組み合わせ

ちぐはぐなものはあまり好みません。わかりやすくしっくりくる組み合わせが好きです。

給食でミネストローネが出たら、コッペパンと牛乳もないといけません。主食が違ったりなんかしたら、飲みこめません。牛乳は嫌いですが、しっくりくる組み合わせのためにならば甘んじて飲みこみます。

突拍子もないことばかりして、それでもしっくりくる人は限りなく魅力的です。丸ごと飲みこみたくなるほどです。だけど私はいきなり大きな声を出したくないし、ビビッドな色になったりしたくありません。お隣の人がびっくりしますし、私が一番びっくりするからです。私は自分のことを平和主義者だと納得していて、それで飲みこんでいるからいいのです。

私自身は今のところ周りの人みんなのことを好きで、どんな人とも関わりたいのですが、そう思わない人がいるのは知っています。そう思うのがしっくりこなくて、そう思わないのがしっくりくる人だっていると思うのです。

だから私はなるべくいろんな人になじみやすい色になりたいです。アイボリーがいいです。水色もピンクも茶色も紺色も素敵だから、それらのうちどれにでも似合うアイボリーになりたいです。

フルーツもクリームものっていないパンケーキみたいな感じになれたら一番です。

一人の時は水のなかみたいなところで考えごとをして、誰かが来たらがんばって水面から出てきます。

水を離れて、空気のなかでしゃべるのはいつも久しぶりだから声の出し方が少しわからなくて、小さいです。でもびっくりしないですんなり出会うほうがしっくりくるのでいいのです。

どうかこの春も、誰かが私と出会ってくれればと願います。

誰かと一緒に暮らしたくなる春には、パステルカラーのマシュマロがよく似合います。

きちんとした生活

私はあまりきちんとした生活していません。

空想の中でなら、けっこうきちんと暮らしています。いろんな時代のいろんな家といろんな町を思い描いて、その世界の中で理想の生活を送るというのは好きで、よくやります。

特によく行くのがハイジの世界で、チーズを暖炉でとろとろにして食べたり、干し草のベッドの香りをかいだりしています。

どんな世界に行ってもちゃんと夜は寝て朝早くに起きて、料理を作って食べて、昼間もいろいろと忙しく働きます。

それなのにどうして現実の私はきちんとした生活をしようとしないのでしょう。

自炊はしないし、片付けは足の踏み場がなくなるまで、洗濯は着る服がなくなるまでしないことがあります。寝るのを後回しにして、深夜や明け方になって、次の日時間通りに起きられなかったりもします。

私は生活に興味がないのです。生活よりかは考えごととか空想に惹かれます。

毎日毎日同じ家の中で同じパターンを繰り返すのには飽きてしまいます。素敵な生活を作り上げたとしても現実の生活になるのは一つのパターンだけで、損した気分になります。

かといって毎日違う種類の素敵な生活をしていたら、とても気力を使います。初めてのパターンを再現するだけで一日が終わってしまうような気がします。

と、考えましたが結局は、私があまり生活を得意としないのが原因のようにも思います。もしくは生活に比べて空想ができすぎるのかもしれません。

素敵な生活をしている人は、例えば料理をすればある程度おいしいものができるからこそ、自分のためにでも家族のためにでも、作れるのだと思います。

私の料理は私にとって奇妙な味で、あまり食べたいと思わないのです。それとも私が想像のなかで自作のおいしい料理を食べすぎたせいで舌が肥えてしまって、期待が高くなりすぎたのでしょうか。

きちんとした生活を送れないのは、素敵な生活を求めるにも関わらず、私にとって十分に素敵と思える生活を維持する気力も能力もさらに言えば本当の意味での動機も私にはないからです。

今気づいたことですが私はきちんとした生活について考えていたはずなのに、基準を生活の素敵さに置いているようです。思うに私は「きちんとした生活」という言葉に「回っている(機能している)生活」と「素敵な生活」との両方の意味を込めていて、私が本当に求める生活は後者ではなく前者ということだと思います。

きちんと生活を回したいということなら、私は心から思っています。生活が回らないとやりたいことが何もできません。

そのために私は素敵な生活を心から諦める必要があります。ちょっとでも素敵さを求めると、想像と現実の落差にがっかりして生活どころではなくなります。

今までだって特に素敵な生活をしようとしていたわけではありませんが、素敵さへの未練があって、私の生活と理想の生活を重ね合わせると悲しくなって家事が手につかないということがかなりありました(こういうとき私は頭のなかでは悲劇のヒロインです)。

そもそもきちんと生活するための一番大きな動機になりうるのは、もっとしっかり考えごとがしたいということです。生活なんかに邪魔されず、じっくり考えて、新しい考えごとをいつも楽しみたいのです。

素敵な生活はたまにでいいやと思います。普段は頭のなかでやっていればよいのです。頭のなかで盛大に楽しむために、生活を最低限で安定させるのです。

理想を追い求めすぎず現実にとって必要な最低限の生活をすればいいという当たり前の結論に達しましたが、この文章を書いている間に私が私に許せる最低限の生活は、夕ごはんを大豆缶と野菜ジュースで済ますレベルに到達しました。(大豆缶も野菜ジュースも好きなのでこれなら続けられると思います。)

きちんとした生活から素敵な生活を引き離す前の最低限の生活は自炊が条件に含まれていて、それをできないことも悲しさの一因でしたから、かなりの進歩です。

こんな方向に進歩していいものか、よくわかりませんが、やってみます。これで生活が回るのならば、回っていない生活よりかはきちんとしていると言えるでしょう。素敵な生活ではないかもしれませんが。それともこういう生活が私になじんでくれば、素敵な生活の一種になるのかもしれません。

石と空のこと

このあいだ朝焼けのなかを自転車で走っていて、宝石みたいな色だ、と思いました。そのとき、小学生のころ何度も読んだ鉱物図鑑が思い浮かんで、懐かしかったので今日は石と空のことを書きます。

小学生のころ、鉱物図鑑が好きでした。きらきらした宝石の写真がたくさん載っている本です。

宝石は高級な物だなんていう意識もなかったので、誕生日プレゼントに水晶玉(魔女にもあこがれていたので)をねだって父を困らせたこともあります。でも本当はきれいなものなら何でもよくて、河原で拾ってきたすべすべした石も、道端で拾ったガラス片も私にとっては同じように価値のあるものでした。

そのころの私にとって、きれいなものとは見るためのものでなく、もちろん所有して他人に見せるためのものでもなく、ただただ文字通り入り込むためのものでした。

写真を見て、色と形と手触りを思い浮かべて、そのうち私がその石になったような気分になるのが楽しかったのです。本当に鉱物の中に入り込んだ気になって、透きとおった色の中を泳いだり、地面から掘り出されたりカットされたり、手のひらに包まれたり床の上に転がったり割れたりしていました。

私は小学生のころの思い出が曖昧なのをいつも不思議に思うのですが、このころは何にでも入り込んでいたせいであまり周りを見ていなかったからなのではないかと考えています。

学校の構造もクラスの人たちの顔も覚えていないかわりに教室の花や机になった気分は覚えていますし、習い事に行く道はよくわかっていなかったのに途中にある桜の木になったときの視点とか、土や木の根になって踏まれる感触は今でも思い浮かべられます。

大学生になった今では何にでも入り込んでいたら生活が回らないのであまりやりませんが、今でも空の色がきれいなときは空の一部になったような気分になることはよくあります。空は丸ごと身を浸せるので入り込みやすいのです。

春の夕日の金色が広がった空とか、冬のなめらかな白い雲でゲレンデみたいに見える空とか、いつか見た一瞬の空がたくさん私のなかには残っていて、そういう空はいつまでも忘れないように思えます。

朝や夕方の空は水色、桃色、紫、黄色、藍色、いろんな色が混ざって溶けあいながら、時間と一緒に移り変わっていきますが、それに合わせて私の色も変わっていくような気がします。夜空は布みたいで、包まれているような気がします。

鉱物の写真でも空でも、それに私が入り込んで私がその一部になっているとき、私はどこにいるのでしょう。自分の存在なんて意外と自分でも忘れているときが多いのかもしれません。こう思うのは私だけで、ほかの人はいつも自分が自分としてあると思っているのでしょうか。それとも自分の存在を普段は忘れているのは意外なことではなく当たり前のことで、私が今ふと気になっただけでしょうか。

冬と春のあいだの夜

3月の夜は好きです。

冬の香りが春の香りに移り変わるのを、夜はとりわけ感じる気がするのです。

冬の夜の香りといえば製氷機から取り出した氷のようで、見た目で例えれば擦りガラスのような感じがします。それが春に近づくにつれて、透き通ってきて、輝きだして、いろんな色に色づき始める気がするのです。

冬のすっとするような香りも好ましいのですが、春になってだんだん香りが色を変えるのは、冬の香りからまた遠ざかってしまう寂しさを超えるくらいうれしいのです。夏になるときも、秋になるときも、冬になるときも、いろいろと感じますが、こんなにうれしさばかり選び出したように感じる変化は春になるときくらいです。

今、冬と春のあいだの夜空は、青よりは緑に転じそうな濃い黒色の空に、白く発光する月のコントラストでこれでも十分素敵ですが、こんなに深くて静かな夜空にはやっぱり花の色と香りが欲しくなります。

花の香りが好きです。花を見るのはあまり好きではありません。花が生きていると感じてしまうと散るところが思い浮かんで怖くなります。香りだけで姿が見えないのなら、淡い色合いと柔らかな花びらと蜜の甘さだけ想像すればいいのです。

春になってどこからか花の香りがするようになると、夜空の色はもっと濃く、ベルベットみたいになって、見ただけで手ざわりがわかる感じがします。それが今から楽しみで、ベランダに出て花の香りがしてこないか確かめたりしています。

夜空も月の光も花の香りも、ひっそりとしているのが好きです。静かなひとりの夜みたいで好きです。

色と香りと肌ざわり

小さい頃からきれいな色のものやいい香りのするものが好きです。

水性マーカーで色水を作って日の当たるベランダに並べたり、ミカンの皮でポプリを作ってみたり、河原で拾ったミルク色の小石をずっと持っていたり、小学生の頃の思い出は学校のことより自分で作った色と香りのお守りのことのほうが多いかもしれません。

そんな私はきれいなものを自分でも作りたいと思って、折り紙に始まりお菓子作り、編み物、ビーズ細工、料理などありとあらゆるものに手を出しましたが、残念ながらどれも本に載っていた写真のようにはいかず、気に入らなくてめちゃくちゃにしてしまいます。

そうでなくてもアスファルトと川の匂いのする、田舎でも都会でもない郊外で暮らし、わざとらしい色であふれかえった小学校に通う毎日があまり好きではなかったので、きれいなものをきれいに作れないのは私が森に住む魔法使いじゃないせいだと思い込み、いつか魔女になったときに備えようとたくさん本を読みました。(当時は気に入った本のことを心の中で密かに魔術書と呼んでいました。)

繊細だったり、きらきらしていたり、淡く滲むようだったりするなにかを作り出したいと思いながら叶えられないままもうすぐ大人と呼ばれるような歳になり、もう魔女にはなれないことを悟った私はこの頃、将来どうやって暮らしを立てようかとよく考えます。

最近メルロ=ポンティという人の文章を目にすることが多くて、私は彼の著作を一冊も読み通したことはないし、引用された一節を読んでもあまりきちんと意味が分かった気はしないのですが、感覚的な物事を布や窪みや揺らぎに例えていたりするのが新鮮で、少しずつ読み始めました。哲学というちょっと堅そうな分野の人の文章なのに、しかも翻訳されていて彼の言葉そのものではないはずなのに、読むにしたがって変化する確かな肌ざわりがあるように感じられるのが素敵なのです。

読みながら、言葉でも肌ざわりは、本物のような感覚は作れるじゃないかと思いました。きれいな物が作れないなら、私の好きな色や香りが私にもたらす感覚を、言葉で書けばいいのかもしれない。

そういうわけでこの頃私の将来の夢は、魔法使いではなくなにか物を書きながら暮らす人です。

はじめまして/水のなかから見た世界

はじめまして。

長い文章をいろんな人に見られるかもしれない場所に置くのは初めてなので、どうしたものかわかりませんがやってみます。

考えごとをまとめる場所がずっと欲しかったのです。

じっくり考えたいことはいくらでもあるのに、現実の生活のなかでも考えないといけないことは次々と湧いてくるから沈み込めない。そのうちに考えたはずの忘れたくないこともどんどん押し出されて忘れていってしまいます。

考えごとに存分に沈み込んだときはきれいな水のなかに完全に漬かってしまって、外の世界のきらきらした光だけを見ているような感じがします。そうしているのは心地のいいことですが、外の世界とは隔絶されたこの場所で生み出されたものは誰にも知られないまま消えてしまってかわいそうです。

だからこそここに私の考えごとを、せめて一瞬でも忘れないでいられたものだけでも、貯めていこうと思います。よろしくおねがいします。