水のなかの色

あいまいなものについて、考えごと。

ある春の日

今日の昼間はよく晴れていたから近所を歩いていた。大学の近くに住んでいて、いまは授業がないからあまり人が出歩いていない。そのかわり、意外と車はたくさん通っていた。前よりも多いくらいだ。窓に隔てられた車のなかは家みたいなものだから、家ごと動いてるようでおもしろい。運転はできないけれど少し欲しくなってしまった。

家の前の道では、シロツメクサツツジがちょっと考えられないくらいの密度で咲いていた。一週間前よりも明らかに視界が鮮やかだ。こんなにたくさんの色と香り、部屋にいたら思いつくこともできない。一年前だって二年前だって同じように咲いていたんだろうけど、今日まで思い出さなかったから不思議。ツツジのピンク色が坂道の両側にずっと続いていて、その間を一人でゆっくり下っていった。なぜか祝福されているような心持ちがした。

家から一番近い定食屋さんがテイクアウトを始めていた。その店先で偶然、近所に住む友人と会って、公園のベンチに離れて座って一緒にテイクアウトの弁当を食べた。少し奥まったところにある遊具の少ない公園で、訪れるのは三回目くらい、ベンチにちゃんと座ってみたのはこれが初めてだ。日当たりがよくてじっとしていても暖かい。日向ぼっこみたいな気分で、戦争の時も普段は案外こんな感じだったのかなって話していた。

食べ終わって、二人であたりを散策することになった。私はよく道に迷うから、一人では決まった道以外あまり歩く気になれない。でも彼女はどんどん行くから私も知らない道にどんどん入っていった。知らない建物がたくさんあった。ここに住むのも4年目なのだけど、知っている場所以外は当然知らない場所で、そういう場所のほうがずっと多いのだろう。旅は徒歩圏内でもちゃんとできてしまう。

このところずっと家のなかで文字を読んでいて、そうできる時間があるのはありがたいことだけどなんだか味気ないとも思っていた。考えることも文字の世界だけでループしてるだけで私のほうまで降りてきてくれないような。足りないと思っていたものの正体は感じることなのかもしれない。考えたことを照らし合わせられるような感覚が、自分のなかになければちゃんと私が考えたという気分になれない。外に出ることって家からの距離が離れることより、そういう新しい色や香りや音や空気に出会うから嬉しくなるのかもしれない。

今日はたくさんの新しいことを感じられて久しぶりにちゃんと嬉しかった。未来の私がこの春のことを思うとき、今日吸った空気の香りも思い出してくれたらいいな。