水のなかの色

あいまいなものについて、考えごと。

最近考えていること

最近考えているのは、私は何をどうやって書けばいいのかなということです。私は別に誰にも見られていなくたって自分だけのためにあれこれと書いていますが、それはそれとして誰かに見られるかもしれない場所に私の書いたものを置いておきたいという望みはやっぱり消えないものなのです。

ひらがなとカタカナしか書けない頃から書いてきました。昔から覚えておきたいことはすぐに忘れてしまうから。思いついた言葉のメモに始まって、読んだ物語を真似て書いたりもするようになって、ずっとそのまま育ってきました。小さい頃は(本当は身長が伸びなくなってから少しの間も)物語を書く人か自分で歌を作る人になりたいと思っていました。長い話は書いてて途中で飽きてしまうし歌は作っても楽器が弾けないし声も伸びないしで、どちらも不自由なものだったけれど。

今はそういう作品を作ることじゃなくて、書くこと自体に興味があります。私自身のことを私自身のために書くこと。しかもそれを他の誰かがもしかしたら読むかもしれない場所まで手放すこと。「話す」という言葉には「放す」という意味が重なっていると聞きました。解放したいのかもしれない、私のなかだけでずっとぐるぐると思い出しては意味づけてきた私だけの記憶を。

話すことは書くことよりも難しいことなんじゃないかと最近思います。話すことには相手がいるから、私の発する言葉次第でその人の私に対する見方も変わるのかもしれないと思うと言えないことが多すぎるのです。話すことはスピードが速くてもともと苦手というのもありますが。大学の演習でインタビューというものをしたのですが、私が聞かれる側だったら何も答えられないと感じてしまって、何も聞けなくなってしまいました。この頃は就職活動をしているのですが、その面接でもほとんど何も答えられません。なんで初対面の人に人生の挫折経験なんて話さなきゃならないのか、全く納得がいかないので。適当に答えればいいのでしょうけど、私は言葉だけはなるべく適当に使いたくないのです。

そんな感じで、もしかしたら話せないことがあまりに余っているのでずっと書いているのかもしれません。ただ、書くこともなかなか不自由です。あまり深く考えずに何か書いてインターネットの海に放ればいいのですが、そのために大学1年の夏からTwitterをやっているのですが、Twitterだって私以外の人々がいるのでずっと自分にしか見せずに書いてきた私には難しかったんです。あれはタイムラインに触発されて思いついたことを即座につぶやくというのを想定したツールだと思うのですが、私にはどうもそういうことができませんでした。やっぱり現実世界と同じで速いスピードにはついていけないし自分を手放すことには躊躇ってしまいます。たかだかSNSのことでこんなに考え込むのもおかしいかもしれませんが。

ここで書きたいのは私が忘れたくないけれど一度手放したいとも感じるような私の記憶の話です。いろいろと気にすると何もできないので取り急ぎ書ける形で。記憶は層になっていて、同じ事実についても複数の違った意味合いがついていくものなので、同じことを何度も違った形で書いていくかもしれません。文章は読まれるまで待っているものなので読まれるまではひとまず置いておきましょう。読んでくれた方がもしいるのならば心から、ありがとうございます。