水のなかの色

あいまいなものについて、考えごと。

色と香りと肌ざわり

小さい頃からきれいな色のものやいい香りのするものが好きです。

水性マーカーで色水を作って日の当たるベランダに並べたり、ミカンの皮でポプリを作ってみたり、河原で拾ったミルク色の小石をずっと持っていたり、小学生の頃の思い出は学校のことより自分で作った色と香りのお守りのことのほうが多いかもしれません。

そんな私はきれいなものを自分でも作りたいと思って、折り紙に始まりお菓子作り、編み物、ビーズ細工、料理などありとあらゆるものに手を出しましたが、残念ながらどれも本に載っていた写真のようにはいかず、気に入らなくてめちゃくちゃにしてしまいます。

そうでなくてもアスファルトと川の匂いのする、田舎でも都会でもない郊外で暮らし、わざとらしい色であふれかえった小学校に通う毎日があまり好きではなかったので、きれいなものをきれいに作れないのは私が森に住む魔法使いじゃないせいだと思い込み、いつか魔女になったときに備えようとたくさん本を読みました。(当時は気に入った本のことを心の中で密かに魔術書と呼んでいました。)

繊細だったり、きらきらしていたり、淡く滲むようだったりするなにかを作り出したいと思いながら叶えられないままもうすぐ大人と呼ばれるような歳になり、もう魔女にはなれないことを悟った私はこの頃、将来どうやって暮らしを立てようかとよく考えます。

最近メルロ=ポンティという人の文章を目にすることが多くて、私は彼の著作を一冊も読み通したことはないし、引用された一節を読んでもあまりきちんと意味が分かった気はしないのですが、感覚的な物事を布や窪みや揺らぎに例えていたりするのが新鮮で、少しずつ読み始めました。哲学というちょっと堅そうな分野の人の文章なのに、しかも翻訳されていて彼の言葉そのものではないはずなのに、読むにしたがって変化する確かな肌ざわりがあるように感じられるのが素敵なのです。

読みながら、言葉でも肌ざわりは、本物のような感覚は作れるじゃないかと思いました。きれいな物が作れないなら、私の好きな色や香りが私にもたらす感覚を、言葉で書けばいいのかもしれない。

そういうわけでこの頃私の将来の夢は、魔法使いではなくなにか物を書きながら暮らす人です。